1988年12月21日にヒースロー空港を離陸してニューヨークに向かうパンナム103便がスコットランド地方のロッカビー上空で爆破し乗員乗客全員259名とロッカビー住人11名が死亡したこの事件からすでに25年が過ぎた。先週土曜日12月21日には追悼式典がロッカビー、アメリカのワシントンDC近辺のアーリントン国立墓地そしてロンドンのウェストミンスター寺院で行われた。
被害者の多くはクリスマス前に帰郷するアメリカ人であった。アメリカ側の被害者遺族の多くがスコットランド法に基づく特別法廷で2001年に有罪判決を受けたリビアのアブデルバセット・アル・メグラヒの犯行という公式の見解を受け入れているのに対してイギリス側の被害者遺族のなかにはこれに異を唱えるものがいる。その代表は娘のフローラ(当時23歳)を喪った医師のジム・スワイア氏である。
ウェストミンスター寺院で追悼の辞を述べたスワイア氏はこの悲劇の真相は未だに明らかにされておらず、アメリカとイギリス政府がこの事件について持っている情報の全てを公開することを要求している。有罪判決を受けたメグラヒは終身刑を言い渡され、2009年に末期の前立腺がんを患っていることから人道的措置として釈放され、リビアで昨年5月に亡くなった。このリビアへの身柄引き渡しはメグラヒが控訴を取り下げたことによって可能になった。メグラヒと面談したこともあるスワイア氏は彼の無実を確信しており、彼が亡くなった時点では友人と呼べる存在であったと述べた。
スワイア氏はイギリス政府による公式調査を要求し続けているが25年たってもこの要求が通らないようならば欧州裁判所に自国政府が人権法の規定する義務を怠ったとして訴えることも考慮していると語った。また、メグラヒの家族とスワイア氏を初めとするロッカビー活動家は、メグラヒ有罪判決に対する死後控訴の可能性も探っており、2014年にスコットランド刑事事件再審委員会(SCCRC)に控訴申請をする予定である。
もしこれが許可されればメグラヒにとって3度目の控訴審となる。2001年の判決ではフランクフルトからロンドンへ向かう(パンナム103便への)フィーダー便にメグラヒがマルタでスーツケースの中の爆発物を積み込んだとされているが、スワイア氏らはこれはヒースロー空港で積荷されたものだと主張している。
(スコッツマン紙 2013年12月18日より)
http://www.scotsman.com/news/scotland/top-stories/lockerbie-campaigners-to-launch-new-megrahi-appeal-1-3236964
国境なき医師団が毎年発表する「マスコミで報道されない10大人道的危機リスト」に10年以上続けてランクされているコンゴ民主共和国での紛争はまさに「見えない戦争」だ。その死傷者数は第二次世界大戦以来最大の540万人を超えたにもかかわらず日本で報道されることはほとんどない。これは地域民族紛争として捉えられがちだが、欧米諸国、周辺アフリカ諸国、多国籍企業などの国際的な利権が複雑に絡み合って起こった「人道的危機」である。
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2013年12月26日木曜日
2013年12月22日日曜日
追悼 元国際ルワンダ戦犯法廷調査官マイケル・ホーリガン氏逝く
南オーストラリア州アデレードの弁護士マイケル・ホーリガン氏が12月の初めに脳溢血によって55歳の若さで亡くなった。ホーリガン氏はルワンダでの戦争犯罪、イラクのアブグレイブ刑務所での虐待事件そしてルーマニアでの児童奴隷について調査を行うなど国際人権活動家として優れた業績を持つ。そのなかでも特筆すべきは、ルワンダ虐殺の引き金となったといわれる94年4月6日のロケットミサイルによる大統領搭乗機の撃墜に関する捜査であろう。
アデレードで警察刑事、そして公訴局長官(検察局)検察官の職を経て1996年に国際ルワンダ戦犯法廷(ICTR)調査員に就任。ルワンダに到着後20人のメンバーを持つ「国内チーム」のリーダーとなった。この法廷の調査対象期間は1994年の1月1日から12月31日であり、当時の検察長官リチャード・ゴールドストーンらの指示でチームの捜査は以下の点に焦点を置くとされた。
1.セオネステ・バゴソラ大佐の犯罪行為
2.アナトール・ンセンギユムヴァ大佐の犯罪行為
3.虐殺初期に大統領府が行った数千人に及ぶルワンダ人エリートの殺害
4.1994年4月6日の飛行機撃墜で大統領ハビヤリマナその他搭乗者が死亡した事件
1997年初旬にナショナルチームは3人の情報提供者(元または現ルワンダ愛国戦線のメンバー)が直接ハビヤリマナ大統領の乗る飛行機のロケット弾による攻撃に関与したという証言を得た。彼らの証拠はカガメ大統領とその政権・軍の人員が直接この件に関与したことを明示していた。これらの情報提供者はまた、カガメ政権が国外に住むの著名なルワンダ人を暗殺する極秘作戦を行っているとも述べた。そのような暗殺標的となった例として元内政大臣のセス・セダションガの名が挙げられた。
このような機密情報を得たホーリガンは直ちに指揮官のジム・リヨンに報告すると同時にヘイグにいるルイーズ・アルブール検察長官に米大使館の(盗聴防止コード化)電話を使って詳しく報告した。(アルブール判事はゴールドストーン判事の後任として96年9月に検察長官に就任。ヘイグの旧ユーゴスラビア戦犯法廷の検察長官も兼ねていた。)アルブール判事は大統領飛行機撃墜捜査に大きな展開があったことを喜んでいるようであった。
その翌週ホーリガンはヘイグに飛んでアルブール判事と直接会談し、国内チーム調査覚書としてその機密情報を提出した。アルブール判事は電話で話したときとは違って情報源とその信憑性について疑問を呈した後、国内チームが大統領撃墜捜査を打ち切ることを命じた。チームの任務は虐殺について捜査することであり、それは飛行機墜落の「後に」始まったので墜落事件はチームの任務外だ、というのがその理由だった。
この発言にショックを受けたホーリガンは法廷の対象期間が94年のすべてをカバーすることや、法廷規約に「テロリズム」と「殺人」に関する条項があること、そしてなによりも、以前彼がアルブール判事にチームの捜査状況を説明したときにいちども飛行機撃墜が任務外であると言われなかったことを訴えた。
アルブール判事は、(国内チームに)飛行機撃墜の捜査を終わらせる指示をする彼女の権威に異議があるのかときつい調子で尋ねた。ホーリガンは彼女の権威に疑問があるのではなく判断に疑問をもったのだと言い、彼は判事に仕える身であってその指示に従うと述べた。
キガリに戻って少ししてからホーリガンは国際ルアンダ戦犯法廷の仕事を辞任した。国内チームはそれによって解散し、飛行機撃墜の捜査は打ち切りとなった。
ホーリガンは、国連の幹部または外部の誰かがアルブール検察長官に圧力をかけて大統領機撃墜の捜査を終わらせたのではないか、と2006年の宣誓口述書で述べている。
http://www.theage.com.au/articles/2007/02/09/1170524298439.html
彼の死はジャーナリストのアン・ギャリソンとロビン・フィルポットが追悼文を出した以外オーストラリアのタブロイド紙が二週間後に死亡記事を載たくらいで殆どメデイアで取り上げられていない。http://www.anngarrison.com/audio/2013/12/09/477/Legacies-Michael-Hourigan-and-the-ICTR
アデレードで警察刑事、そして公訴局長官(検察局)検察官の職を経て1996年に国際ルワンダ戦犯法廷(ICTR)調査員に就任。ルワンダに到着後20人のメンバーを持つ「国内チーム」のリーダーとなった。この法廷の調査対象期間は1994年の1月1日から12月31日であり、当時の検察長官リチャード・ゴールドストーンらの指示でチームの捜査は以下の点に焦点を置くとされた。
1.セオネステ・バゴソラ大佐の犯罪行為
2.アナトール・ンセンギユムヴァ大佐の犯罪行為
3.虐殺初期に大統領府が行った数千人に及ぶルワンダ人エリートの殺害
4.1994年4月6日の飛行機撃墜で大統領ハビヤリマナその他搭乗者が死亡した事件
1997年初旬にナショナルチームは3人の情報提供者(元または現ルワンダ愛国戦線のメンバー)が直接ハビヤリマナ大統領の乗る飛行機のロケット弾による攻撃に関与したという証言を得た。彼らの証拠はカガメ大統領とその政権・軍の人員が直接この件に関与したことを明示していた。これらの情報提供者はまた、カガメ政権が国外に住むの著名なルワンダ人を暗殺する極秘作戦を行っているとも述べた。そのような暗殺標的となった例として元内政大臣のセス・セダションガの名が挙げられた。
このような機密情報を得たホーリガンは直ちに指揮官のジム・リヨンに報告すると同時にヘイグにいるルイーズ・アルブール検察長官に米大使館の(盗聴防止コード化)電話を使って詳しく報告した。(アルブール判事はゴールドストーン判事の後任として96年9月に検察長官に就任。ヘイグの旧ユーゴスラビア戦犯法廷の検察長官も兼ねていた。)アルブール判事は大統領飛行機撃墜捜査に大きな展開があったことを喜んでいるようであった。
その翌週ホーリガンはヘイグに飛んでアルブール判事と直接会談し、国内チーム調査覚書としてその機密情報を提出した。アルブール判事は電話で話したときとは違って情報源とその信憑性について疑問を呈した後、国内チームが大統領撃墜捜査を打ち切ることを命じた。チームの任務は虐殺について捜査することであり、それは飛行機墜落の「後に」始まったので墜落事件はチームの任務外だ、というのがその理由だった。
この発言にショックを受けたホーリガンは法廷の対象期間が94年のすべてをカバーすることや、法廷規約に「テロリズム」と「殺人」に関する条項があること、そしてなによりも、以前彼がアルブール判事にチームの捜査状況を説明したときにいちども飛行機撃墜が任務外であると言われなかったことを訴えた。
アルブール判事は、(国内チームに)飛行機撃墜の捜査を終わらせる指示をする彼女の権威に異議があるのかときつい調子で尋ねた。ホーリガンは彼女の権威に疑問があるのではなく判断に疑問をもったのだと言い、彼は判事に仕える身であってその指示に従うと述べた。
キガリに戻って少ししてからホーリガンは国際ルアンダ戦犯法廷の仕事を辞任した。国内チームはそれによって解散し、飛行機撃墜の捜査は打ち切りとなった。
ホーリガンは、国連の幹部または外部の誰かがアルブール検察長官に圧力をかけて大統領機撃墜の捜査を終わらせたのではないか、と2006年の宣誓口述書で述べている。
http://www.theage.com.au/articles/2007/02/09/1170524298439.html
彼の死はジャーナリストのアン・ギャリソンとロビン・フィルポットが追悼文を出した以外オーストラリアのタブロイド紙が二週間後に死亡記事を載たくらいで殆どメデイアで取り上げられていない。http://www.anngarrison.com/audio/2013/12/09/477/Legacies-Michael-Hourigan-and-the-ICTR
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