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2013年12月26日木曜日

パンナム103便爆破事件(ロッカビー事件)25周年追悼式

1988年12月21日にヒースロー空港を離陸してニューヨークに向かうパンナム103便がスコットランド地方のロッカビー上空で爆破し乗員乗客全員259名とロッカビー住人11名が死亡したこの事件からすでに25年が過ぎた。先週土曜日12月21日には追悼式典がロッカビー、アメリカのワシントンDC近辺のアーリントン国立墓地そしてロンドンのウェストミンスター寺院で行われた。

被害者の多くはクリスマス前に帰郷するアメリカ人であった。アメリカ側の被害者遺族の多くがスコットランド法に基づく特別法廷で2001年に有罪判決を受けたリビアのアブデルバセット・アル・メグラヒの犯行という公式の見解を受け入れているのに対してイギリス側の被害者遺族のなかにはこれに異を唱えるものがいる。その代表は娘のフローラ(当時23歳)を喪った医師のジム・スワイア氏である。

ウェストミンスター寺院で追悼の辞を述べたスワイア氏はこの悲劇の真相は未だに明らかにされておらず、アメリカとイギリス政府がこの事件について持っている情報の全てを公開することを要求している。有罪判決を受けたメグラヒは終身刑を言い渡され、2009年に末期の前立腺がんを患っていることから人道的措置として釈放され、リビアで昨年5月に亡くなった。このリビアへの身柄引き渡しはメグラヒが控訴を取り下げたことによって可能になった。メグラヒと面談したこともあるスワイア氏は彼の無実を確信しており、彼が亡くなった時点では友人と呼べる存在であったと述べた。

スワイア氏はイギリス政府による公式調査を要求し続けているが25年たってもこの要求が通らないようならば欧州裁判所に自国政府が人権法の規定する義務を怠ったとして訴えることも考慮していると語った。また、メグラヒの家族とスワイア氏を初めとするロッカビー活動家は、メグラヒ有罪判決に対する死後控訴の可能性も探っており、2014年にスコットランド刑事事件再審委員会(SCCRC)に控訴申請をする予定である。

もしこれが許可されればメグラヒにとって3度目の控訴審となる。2001年の判決ではフランクフルトからロンドンへ向かう(パンナム103便への)フィーダー便にメグラヒがマルタでスーツケースの中の爆発物を積み込んだとされているが、スワイア氏らはこれはヒースロー空港で積荷されたものだと主張している。

(スコッツマン紙 2013年12月18日より)
http://www.scotsman.com/news/scotland/top-stories/lockerbie-campaigners-to-launch-new-megrahi-appeal-1-3236964



2013年12月22日日曜日

追悼 元国際ルワンダ戦犯法廷調査官マイケル・ホーリガン氏逝く

南オーストラリア州アデレードの弁護士マイケル・ホーリガン氏が12月の初めに脳溢血によって55歳の若さで亡くなった。ホーリガン氏はルワンダでの戦争犯罪、イラクのアブグレイブ刑務所での虐待事件そしてルーマニアでの児童奴隷について調査を行うなど国際人権活動家として優れた業績を持つ。そのなかでも特筆すべきは、ルワンダ虐殺の引き金となったといわれる94年4月6日のロケットミサイルによる大統領搭乗機の撃墜に関する捜査であろう。

アデレードで警察刑事、そして公訴局長官(検察局)検察官の職を経て1996年に国際ルワンダ戦犯法廷(ICTR)調査員に就任。ルワンダに到着後20人のメンバーを持つ「国内チーム」のリーダーとなった。この法廷の調査対象期間は1994年の1月1日から12月31日であり、当時の検察長官リチャード・ゴールドストーンらの指示でチームの捜査は以下の点に焦点を置くとされた。
1.セオネステ・バゴソラ大佐の犯罪行為
2.アナトール・ンセンギユムヴァ大佐の犯罪行為
3.虐殺初期に大統領府が行った数千人に及ぶルワンダ人エリートの殺害
4.1994年4月6日の飛行機撃墜で大統領ハビヤリマナその他搭乗者が死亡した事件

1997年初旬にナショナルチームは3人の情報提供者(元または現ルワンダ愛国戦線のメンバー)が直接ハビヤリマナ大統領の乗る飛行機のロケット弾による攻撃に関与したという証言を得た。彼らの証拠はカガメ大統領とその政権・軍の人員が直接この件に関与したことを明示していた。これらの情報提供者はまた、カガメ政権が国外に住むの著名なルワンダ人を暗殺する極秘作戦を行っているとも述べた。そのような暗殺標的となった例として元内政大臣のセス・セダションガの名が挙げられた。

 
   
このような機密情報を得たホーリガンは直ちに指揮官のジム・リヨンに報告すると同時にヘイグにいるルイーズ・アルブール検察長官に米大使館の(盗聴防止コード化)電話を使って詳しく報告した。(アルブール判事はゴールドストーン判事の後任として96年9月に検察長官に就任。ヘイグの旧ユーゴスラビア戦犯法廷の検察長官も兼ねていた。)アルブール判事は大統領飛行機撃墜捜査に大きな展開があったことを喜んでいるようであった。

その翌週ホーリガンはヘイグに飛んでアルブール判事と直接会談し、国内チーム調査覚書としてその機密情報を提出した。アルブール判事は電話で話したときとは違って情報源とその信憑性について疑問を呈した後、国内チームが大統領撃墜捜査を打ち切ることを命じた。チームの任務は虐殺について捜査することであり、それは飛行機墜落の「後に」始まったので墜落事件はチームの任務外だ、というのがその理由だった。

この発言にショックを受けたホーリガンは法廷の対象期間が94年のすべてをカバーすることや、法廷規約に「テロリズム」と「殺人」に関する条項があること、そしてなによりも、以前彼がアルブール判事にチームの捜査状況を説明したときにいちども飛行機撃墜が任務外であると言われなかったことを訴えた。

アルブール判事は、(国内チームに)飛行機撃墜の捜査を終わらせる指示をする彼女の権威に異議があるのかときつい調子で尋ねた。ホーリガンは彼女の権威に疑問があるのではなく判断に疑問をもったのだと言い、彼は判事に仕える身であってその指示に従うと述べた。

キガリに戻って少ししてからホーリガンは国際ルアンダ戦犯法廷の仕事を辞任した。国内チームはそれによって解散し、飛行機撃墜の捜査は打ち切りとなった。

ホーリガンは、国連の幹部または外部の誰かがアルブール検察長官に圧力をかけて大統領機撃墜の捜査を終わらせたのではないか、と2006年の宣誓口述書で述べている。
http://www.theage.com.au/articles/2007/02/09/1170524298439.html


彼の死はジャーナリストのアン・ギャリソンとロビン・フィルポットが追悼文を出した以外オーストラリアのタブロイド紙が二週間後に死亡記事を載たくらいで殆どメデイアで取り上げられていない。http://www.anngarrison.com/audio/2013/12/09/477/Legacies-Michael-Hourigan-and-the-ICTR






 

2012年12月29日土曜日

国連専門家グループ 2012年コンゴ最終レポート

今年11月15日にコンゴ民主共和国に関する専門家グループの最終報告書が提出されました。以下はその要旨(Executive Summary) を訳したものです。

http://www.un.org/sc/committees/1533/egroup.shtml

要旨

コンゴ民主共和国の東部では複数の国内外武装勢力による惨禍が続いている。

2012年前期に人民防衛国民会議(CNDP)の元メンバーらが反乱を起こし、その後3月23日運動(M23)を結成して以来この地域はさらに不安定化している。

反乱軍は2012年7月に外国からの広範な支援を受けて支配をルシュル地区にまで拡大した。そして非公式の停戦を利用して各地での同盟と司令代理作戦を拡大した。

ルワンダ政府は武器禁輸を破ってM23反乱軍に対する新兵徴募やコンゴ民主共和国軍からの脱走を奨励推進、また武器弾薬、諜報、政治的助言を与えるなど直接軍事援助を行い続けている。

M23の事実上の指揮系統はボスコ・ンタガンダ大佐を含み、ルワンダ国防大臣ジェームス・カバレベ大佐に至る。

中間報告書の補遺(S/2012/348/Add.1)公表に伴い当(国連専門家)グループはルワンダ政府と会見し、その文書による返答を考慮に入れたが、先の調査結果の変更を必要とするような実質的な要素はなかった。

ウガンダ政府高官もまたM23にコンゴ国境内での直接的な軍の増援、兵器の搬送、技術援助、共同計画、政治的助言、対外交渉の斡旋といった援助を与えている。

ウガンダ人民防衛軍とルアンダ国防軍は合同でM23が2012年7月にルシュル地区の主要な町とルマンガボのコンゴ軍基地を数回にわたって攻撃する援助をした。

両政府はまた協力してM23の政治部の設立と展開を支援し、一貫して反乱軍を擁護している。

M23とその同盟者には制裁対象となっている者が6人がおり、そのうちの数人はルワンダがウガンダに住んでいるか定期的にそれらの国を訪れている。

M23は正式な前線における戦闘の一時停止を利用してキヴ(3州)、イトリ地域、西カサイ州の各地で他の武装集団との同盟関係構築を進めた。スルタニ・マケンガ将軍はM23と同盟関係を結んだ武装集団との取りまとめ役として頭角を現した。

彼は8月と9月にライア・ムトンボキが民族的動機に基づく残虐な攻撃を仕掛けるよう命令した。マシシ地域のコンゴ・フツ人社会はその民兵がM23側につくことを拒否し、ライア・ムトンボキによって800の家が焼かれ市民数百人が殺された。

武装集団とりわけM23による少年兵の動員と徴兵が増えた。過去に子供を動員したことのある数人のM23司令官が数百人の少年少女の入隊と訓練を監督していた。その上M23の司令官の何人かは新兵と戦争捕虜の超法規的処刑をも命じている。

イトゥリのヘマとレンドゥ系武装集団と南キヴのバニヤムレンゲ団体と共同戦線を張ろうというM23の数々の試みは大きな抵抗にあった。コンゴ民主共和国政府はそのようなM23の同盟拡張の試みに対抗するべく主にイトゥリとマシシ地域の武装集団の統合過程を推し進めた。

ルワンダ開放民主軍(FDLR)は以前よりも人員が減り、市民に対する人権侵害を続けているが外部の支援からはさらに隔離されており、コンゴ軍とM23の同盟軍からの攻撃を受けて自衛に集中している。

FDLR の下級士官らはM23に対峙するコンゴ民主共和国政府側につくことを求め、コンゴ軍内の犯罪ネットワークも同時に少量の弾薬をその反逆者たちに売り続けている。しかしFDLRと政府が戦略上の協力をしているという証拠はない。

ブルンジの反政府グループのなかでは解放のための国民軍(FNL)が分裂状態のままであり地元のコンゴ武装集団に依存しているのに対しブルンジ革命国民戦線はムルンディ人民戦線へと変化して南キヴのM23と同盟を結んだ。

ウガンダ主導の民主軍連合は軍事力を増し、東アフリカのアル・シャバーブネットワークと連携している。

コンゴ軍は資源の支配と武装集団からの象牙密売を含む禁制品によって高官の収益を上げる犯罪ネットワークに蝕まれ続けている。

 地上部隊の司令官ガブリエル・アミシ大将は狩猟用銃弾を密猟者と武装集団に分配するネットワークを監督しており、ライア・ムトンボキもそのような武装集団のひとつである。武装解除と備蓄品管理はM23に関連した需要の増大によって効果が損なわれている。小型武器の市場価格が4倍に跳ね上がったからである。

コンゴ民主共和国政府は国連と経済協力開発機構のガイドラインに沿って鉱物輸出業者が適正調査を行う義務を負っているが、2011年にタグ付けが導入された北カタンガをのぞくコンゴ東部からのすべての錫、タンタル、タングステン輸出については、この履行がほとんど中止状態にある。ブルンディとルワンダ両国への密輸出が増加している。

ルワンダでの鉱物タグシステムはコンゴの鉱物が「洗浄」されるために、その信頼性は完全に損なわれてしまった。鉱業協同組合が恒常的にタグを売っているからである。貿易業者のいくつかはコンゴの鉱物のルワンダ密輸による利益を用いてM23の資金調達に貢献している。

キヴ(3州)での錫鉱石産出量は減少したのに対しタンタルとタングステン鉱石産出量は国際的な追跡可能性要求に対して抵抗力を見せてきた。これらの鉱物はより簡単に密輸出ができるからである。ルワンダのタンタルとタングステン輸出は2012年度にこれと対応する増加を見せ、錫の輸出は減少した。

全体的な価格と産出量の減少は採掘地帯の幾つかに社会経済的な悪化をもたらした。しかし鉱業地域の人々が他の経済分野に対応したことで新たな商業の機会が生み出された。主要な錫とタンタル採掘地域のほとんどで治安が改善され、それが紛争資金調達の減少と文民機関や非政府団体による管理と監視の強化につながった。
 
武装集団、コンゴ軍内の犯罪ネッワークと鉱物採掘者は適正調査義務が取引に影響しない状況下では簡単に金鉱に移行することができる。

コンゴ民主共和国東部で採掘された金は殆ど全てが国外に密輸され、カンパラとブジュンブラの大手貿易業者の数々が一年に数トン米数億ドル相当を船で出荷している。

コンゴの金のほとんどはアラブ首長国連合で精錬されて宝石商に売られる。安全保障理事会が課した資産凍結は制裁を受けたマチャンガ社の元経営者の運営を制限するものではない。この人物は他のトンネル会社数社を通して輸出し、多大な金額をコンゴ民主共和国の供給業者に送金している。

 

2012年3月31日土曜日

KONY2012はプロパガンダキャンペーン

KONY2012は一連の「戦争と派兵を売るための情報操作」の一つであり、ソーシャルメディアをたくみに使ったという以外は特に目新しいものではない。草の根のNGOを装い、正義感は強いがナイーブでアフリカをチャリテイーやアメリカが「救う」対象として見るような若者達を動員することに成功した。しかしこれは米軍をウガンダに送ることを「KONYを捕まえて国際刑事裁判所に引き渡す」という表向きの理由によって正当化しようというものだ。KONYが現在ウガンダにいないことなどは問題ではないのだろう。

ジャーナリストのキース・ハーモン・スノウによれば、KONY2012キャンペーンを行っているインビジブル・チルドレンという団体だけでなく、ENOUGH、STAND、RESOLVE、RAISE HOPE FOR CONGOといった非営利団体はすべてセンターフォーアメリカンプログレスというワシントンにあるシンクタンクから援助を受けるなどの関係を持っており、このシンクタンクは米諜報機関と深いつながりがある。ENOUGHは俳優ジョージ・クルーニーが関わっていることで有名な団体だが、その設立者ジョン・プレンダーガストも以前諜報機関に属していた人物だとハーモン・スノウは述べている。

米国の援助を受けていたアンゴラの反政府軍リーダー、ジョナス・サビンビが米国がMPLA政府側援助に乗り換えた直後にあっさりと殺害されたように、米国諜報機関がKONYを見つけて殺害しようと思えば数日を要さないであろう。それをしないのは彼のような「極悪非道」な人物が米軍派遣やウガンダ政府への軍事援助の理由として必要だからだ、というのがハーモン・スノウの見方だ。

興味のある方はインタビューをご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=vO9HL99itSU

2012年2月16日木曜日

カトゥンバ・ムワンケの死

4日前(2月12日)にジョセフ・カビラ大統領の右腕といわれたカタンガ州の政治家オーガスティン・カトゥンバ・ムワンケ氏が飛行機墜落事故によって死亡した。ムワンケはもとカタンガ州の知事(1998~2001)であり、カビラ政権の影の実力者であった。カビラとの関係をブッシュ政権時代のチェニー副大統領とのそれにたとえる者もいる。つまり大統領以上に実質的な権力を握っていたと言うことだ。

カタンガ州知事であったムワンケはジョセフ・カビラが2001年に政権の座に付く以前に軍司令官であったころから親交があり、政権発足時に国営企業大臣に起用されたが2002年の国連専門家パネル報告書でコンゴ資源の不法搾取によって利益を得たことを指摘されてから一時的に政権から退いていた。

しかしその後もコンゴの大規模な鉱業契約や外交政策に多大な影響力を持ち、自身もカタンガ州ディクルーシ鉱区で胴と銀を採掘していたオーストラリアのアンヴィル鉱業会社の取締役会に名を連ねていた。この鉱区からは世界でも有数の純度の高い鉱石が採掘され、西オーストラリア・パースに基盤を持ち設立当時の株価が5セントであったこの会社を時価総額1億ドルの大会社へと成長させた。ディクルーシ鉱区はピーク時に毎日50万ドル相当の鉱石を運び出していた。

ADASHOというルブンバシのNGOスポークスマンはアンヴィル社が採掘に関して政府から税控除を受けており、その優遇措置はムワンケの後ろ盾によるものだと指摘した。ムワンケ自身はアンヴィル鉱業社とのそのような関係を一切否定していた。

大規模な鉱業関係の取引と交渉のすべては彼を通して行われていたともいわれている。ムワンケのコンゴ鉱業界での実力を示す最近の例としては2008年に中国とのインフラ整備と鉱物生産プロジェクトをパッケージにした60億ドル融資契約を結んだことである。

彼の死は権力の真空状態とカビラ政権の不安定化をもたらすであろう。

(アンヴィル鉱業社についてはMatthew Benns 著 Dirty Money, 2011 Chapter 1: Death in the Congo を参考にしました。)

2011年12月18日日曜日

コンゴ民主共和国で戦時中に行われた資源略奪

以下はロヴェルドスの報告書3章の続きです

3・2 コンゴ民主共和国で戦時中に行われた資源略奪


国連、国際組織また米国の専門家達はコンゴ民主共和国東部での暴力事件と地政学的そして地理経済的利益には関連性があることを指摘した。


主権諸国家の対立する利害は安全保障理事会を初めとする国連の組織と決議によって明らかになることが多いが、ルワンダと後にザイール / コンゴ民主共和国での暴力紛争についてもそのような対立する利害は明白であり悲劇的に重大な意味を持つ。しかし国連はまた国際社会に有用な手段をも提供しており、今でもそれは用いることができる。

国連事務総長によって指名され現地に送られた専門委員会は一連の決定的な報告書を作成した。それには2回の戦争中(1996年から1997年のものと1998年にはじまって今でも続いているもの)に戦略的鉱物を略奪したのは主としてルワンダ愛国軍 / ルワンダ愛国戦線とウガンダ軍そして他の軍事団体であったことが詳しく示されている。


第一回国連専門委員会報告書

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ブルンディ、ルワンダ、ウガンダによる不法な資源の搾取には幾つかの方法がある。没収、採取、専売の強制、価格操作などである。これらの最初の2つの方法はコンゴ民主共和国での戦争が収益の高いビジネスになるまでの規模に上った。


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コンゴ人に支援された外国人による不法搾取は1996年の第一次「解放戦争」から始まった。解放民主勢力連合(AFDL)反政府軍はアンゴラ、ルワンダ、ウガンダ兵の支援を受けてザイールの東部及び東南部を制圧した。これらの軍隊が進撃中、当時AFDL指導者であった故ローレン・デズィレ・カビラは外国企業数社と契約を結んだ。1997年までに英語、キニヤルワンダ、キスワヒリのみを話す最初の「新しいビジネスマン」の一群がコンゴ民主共和国の東部に来て営業を始めたことを数多くの報告や書類が示している。


家畜やコーヒー豆その他の資源が盗まれているという報告が頻繁になされるようになった。1998年8月に戦争が勃発するまでには、ルワンダとウガンダの軍のトップとその関係者らはコンゴ民主共和東部の自然資源の将来的な可能性や埋蔵されている場所についてはっきりとした認識を持っていた。


その専門家報告書はまた、西洋の多国籍企業がそれらの資源の略奪と不法採掘に責任があることをはっきりと指摘している。これらの活動は戦争の財源を生むと同時に人道に対する罪や組織的な人権侵害を助長している。責任を問われるべき企業の中には多国籍のものも国内やある地域のみで運営されているものもある。


スペイン裁判所は最近明らかにされたように、国連事務総長に対して国連専門委員会がその調査報告書でコンゴ民主共和国での不法な鉱物資源の搾取に関与したことを指摘した特定の人物及び特定の企業の代表者についての刑事と重要証拠収集面での司法協力を正式に要請した。この論文が発表された時点で国連はこの要請に対する反応を示していない。


グローバル。ウィットネスやインターナショナル・インフォメーション・サービスといった団体も国連と類似した調査を行い、人道に対する罪への関与や略奪に関する証拠を見出した。
国連専門家らはルワンダが正式には国内で生産も輸出もしていないダイヤモンドを輸出していることを明らかにした。


ルワンダはまた、略奪と不法採掘されたコルタンの米国への販売だけでも1年間に2億5千万ドルもの利益を得ている。これはルワンダ愛国戦線/愛国軍がザイールとその後の新コンゴ民主共和国で軍事展開するのに必要な額を充分に満たしていたであろうと思われる。


これは巨大な氷山の一部が表面化したもので元米国家安全保障局員で現在調査研究家のウェイン・マドセンの情報によれば、米国のケロッグ・ブラウン・アンド・ルート社(当時デイック・チェニーが経営していたハリバートン社の子会社)はルワンダ愛国戦線/愛国軍の軍事訓練に関わり、ザイールでは後方支援をしていたとされる。これらの事実は考慮に値する。


侵略と虐殺が行われている間、コルタン、金、ダイヤモンド、胴、コバルトの組織的な略奪があった。コルタンは携帯電話、ラップトップコンピューター、衛星などの市場規模により高い需要のある物質である。


もう一人の米国の調査研究家キース・ハーモンは、西洋の多国籍企業が鉱業権と引き換えに後方支援と軍事物資を与えていたと述べた。鉱業権はキロ・モトのザイーリアン金鉱のように主要地域にある。

このような背景により、最初の戦争が終了してローレン・デズイレ・カビラが政権を取ってから一年後の1998年にルワンダとウガンダの軍隊が二度目のコンゴ民主共和国の占領を行った。

国際刑事裁判所の検察ルイス・モレノ・オカンポが指摘したように、この紛争は第二次世界大戦後のどの紛争よりも高い死傷者をだしている。米国の組織インターナショナル・レスキュー・コミッテイー、国連、欧州連合の記録によれば、540万人が過去10年間の紛争で命を落としている。



ここではっきりさせなくてはいけないのは、そのような鉱物の略奪、不法占有、搾取が名もない多くのアフリカ人の現代版奴隷制度ともいえる労働と米国や西欧の組織や人物らの共謀によって行われてきたということだ。多くの鉱物採掘場で子供たちが日の出から日没まで非人間的な条件下で働いている。


ルワンダの監獄から囚人らがコンゴ民主共和国で採鉱するために輸送され、彼らの刑罰は採鉱場で働くことで「懲役」とみなされて刑期を差し引かれる。これは彼らの人権の重大な侵害である。囚人らは彼らが拘禁されている施設から出られるという以外になんの報酬も与えられない。そして彼らの多くは裁判にもかけられないか、または「虐殺」という総称的な嫌疑のみで告訴されている。


ルワンダ国際戦犯法廷(ICTR)での限られた数の刑の宣告以外に国内の裁判管轄権下で多くの裁判が行われたが、ガチャチャ・コミュニテイー法廷の適用は中立性の欠如という点で国連専門家などから多くの批判を受けた。地理経済的そして地理戦略的権益の絡んだ国際犯罪と人道に対する罪のネットワークが刑事責任を問われ罰せられることは全くない。


現在のコンゴ民主共和国における一般市民への組織的な人権侵害が全く罰せられない状況であるのは明らかだ。国連専門家らは繰り返しこれらの1998年以降の犯罪に責任があるものを捜査し、起訴することを求めている。その年1998年には国連事務総長のコフィ・アナンが特に前ザイールの国境内で起こっているような人権侵害とそれに対する復讐の悪循環が処罰されない状況によってさらに拍車がかかっていることを強く非難した。


国連総長自身がそのように指摘し、その目的によって指名された専門家委員会の勧告にもかかわらず、国連はこれらの犯罪を捜査し裁くための特別国際法廷を設置していない。裁判にかけられる対象は犯罪を犯した個人と多国籍企業を含む非国家主体の代表である。国連はまた、ルワンダ国際戦犯法廷の管轄をこれらの犯罪にまで拡張することもしていない。


コンゴ民主共和国の裁判所もまた、コンゴ国内で起こった国際犯罪、特に1996年10月以降の人々に対して犯された犯罪と資源の略奪のどちらについても捜査をおこなっていない。

2011年12月16日金曜日

国際正義、戦争における資源の略奪、人権と多国籍企業

以下の文はスペイン人弁護士ジョルディ・パラウ・ロヴェルドス (Jordi Palou Loverdos)
による INTERNATIONAL JUSTICE, PLUNDER IN WAR, HUMAN RIGHTS AND MULTINATIONALSの訳である。平和と人権シリーズのレポート16 (Materials of Peace andf Human Rightsw: 16) 発行はBarcelona: The Office for the Promotion of Peace and Human Rights, Generalitat de Cataluna, 2010
wwwgencat.cat/dirip

コンゴ民主共和国の紛争をケースワークとして扱った3章から訳します。

第3章
多国籍企業とその他の非国家主体、暴力と略奪の関連性、コンゴ民主共和国のケース 

以下の短い分析はコンゴ民主共和国(元ザイール)で続いている武力紛争の状況説明である。これらの紛争は複雑であり、その利害関係は世界各地に及んでいる。そこでは権力乱用と膨大な規模の人権侵害そして国際的で地理経済的な犯罪が行われている。

中央アフリカで見られる現代の戦争形態は1989年のベルリンの壁崩壊以前の地政学的バランスが冷戦以降に変化する中で形成されてきた。ベルリンの壁崩壊により世界中の国家や非国家主体が地政戦略的な再配置を急激に行おうとした。中央アフリカで起こった紛争で後に戦闘状況となったものは新しいものではないが、そこには過去10年の間に発展した現代の戦争形態と呼ばれる新しいパターンも見出すことができる。

3.1 コンゴ民主共和国の紛争を考察する 

国際的な専門家の多くはルワンダの紛争とそれに続くコンゴ民主共和国での紛争を、互いに嫌悪しあう民族による部族紛争であると説明してきた。そこには国外からの介入はほとんどないか、あったとしても偶発的なものとして扱われた。

これらの暴力的な紛争について深く調べると、新しい形態の戦争と搾取の下に古来からの人間の欲望が見えてくる。コンゴ民主共和国の東部がここ数十年で最も悲劇的な軍事紛争の舞台となったことと、この地が地球上でもっとも資源が豊富であることは偶然ではない。コルタン、ダイアモンド、銅、コバルト、金、錫、亜鉛、マンガンといった戦略上不可欠な鉱物資源と木材である。以下の地図は中央アフリカのこの地域にどのように資源が分布しているかを示す国連資料である。

中央アフリカのこの地域で自然資源を不法に搾取するというのはもちろん今に始まったことではない。1885年のベルリン会議に続く1879年に、ベルギーのレオポルド二世はコンゴ植民地を会社として統治することを提案した。後の1960年6月4日に独立を果たしたコンゴの選挙で首相に選ばれたばかりのパトリス・ルムンバは政治的独立の次は経済的独立が必要であると主張した。

すでに首相として初めての正式な場でルムンバは、外国勢力がコンゴの自然資源を盗用するために独立したてのこの国の元首を傀儡に挿げ替える危険について警告を発した。ルムンバは独立の日に演説をしてからまだ数ヶ月しかたっていない1961年1月17日に暗殺された。死亡状況などは未だに完全に解明されていない。

1965年にジョセフ・デズィレ・モブツがクーデターで政権を掌握した。この武力政変の目的はザイールを搾取し、モブツの個人的利益と彼に支援を与えている国々や企業の利益を生む商業会社として国を利用することであった。この資源がこの上なく豊かな国の大多数の人々は、それとは対照的に絶対的貧困に喘ぎ今でもそれは変わらない。

その後に1989年に起こったベルリンの壁の崩壊は大きな変化をもたらした。ザイール東部の資源はベルリンの壁崩壊後に現れた「新世界秩序」下でも引き続き、しかし別の角度から強く求められた。最近機密解除された米国の諜報機関の書類で立証されたように、イラクやパレスチナなどの特定の国々で内紛が意図的に扇動された。

すでに存在している分裂に乗じて対立する民族や派閥間の紛争が助長され、地政学的そして地理経済的な戦略にそれらの紛争が利用された。戦略は東部ザイールにある最も重要な資源を支配する為のもので、軍事を含む様々な手段が用いられた。これらの目的を達成させるためには直接介入以外の方法で段階ごとに一歩ずつ進めるべきであるとされた。

最初はルワンダである。1994年でその国に起こったことの直接の結果として多くの人々が家や土地を棄てて国内避難民用のキャンプに流れた。百万人以上の主にフツ民族のルワンダ人が国外に避難して自分らの難民キャンプを作った。これらの難民のほとんどはザイール(現在のコンゴ民主共和国)とそれ以外のルワンダと国境を接する国々へ逃れた。ザイールの難民キャンプのほとんどはその国の東部にあり、キャンプ多くは鉱物が豊富に採れる地域にあった。次の地図を参照。

その当時から現までルワンダ政権は一貫してザイールとの国境の安全についての危惧を表明し続けている。しかし客観的に見てこの戦略的地域とその貴重な鉱物資源を支配することが多大な被害者を生んだ二回の戦争の核心にあったのが現実だ。これらの被害者の中にはルワンダ人もいたが大多数はコンゴ人である。

これらの戦争には中央アフリカの幾つかの国々とその軍隊そしてまた重要な非国家主体も関与した。それらの国家または非国家主体のあるものは軍事と後方支援に関わり、あるものは貴重な自然資源の採掘、運送、売買に従事した。

1996年と1997年にルワンダ愛国軍・愛国戦線(RPA / FPR)はザイールの東部にあるフツ難民キャンプを組織的に攻撃して数十万のルワンダ人とコンゴ人を殺し、ダイアモンド、コルタン、金などの鉱物資源の略奪の手配をした。 

RPA / FPRは「コンゴ担当課」と軍事情報総局と対外安全保障局(ルワンダ国外に配置された軍情報機関)と、多国籍企業や西欧勢力に支援されたルワンダの企業などによる指示の元に複雑な軍事活動網を築き上げ1998年の第二次軍事侵攻以降もこれらの行動を続けた。コンゴ民主共和国東部での殺戮と略奪は現在まで続いている。

ザイールでの戦争に向けた準備については、前述のスペイン起訴命令によるとルワンダ軍に属す者らが1995年にすでにバニヤムレンゲと呼ばれる人々と接触を持っていた。彼らはバニヤムレンゲに1995年から1996年の半ばまでルワンダとザイールの両国内で極秘の軍事訓練をしていた。

政変が組織され実行に移されたやり方は驚くべきものである。ザイールのモブツのように独裁または権威主義政権であることに議論の余地がないケースで、国家公務員と多国籍企業が、なにが起こっているかを熟知した金融、経済、政治そして軍事界の支援を受けて企画し行った「政変」であったからだ。

1990年代の中ごろから米国の政治界の一部で「ザイールの政権交代」の可能性について意見が密かに流布されていた。1996年当時米連邦下院議員であったシンシア・マッキニーは他の者数人とザイールに視察調査へ行くことにした。

マッキニーが出席した重要な会合数々で特に意義深かったのはルムンバシ(ザイール東南部)で当時反政府指導者であったローレン・デズィレ・カビラとのものであった。議員によると彼女のザイール行きの飛行機はアメリカン・ミネラル・フィールドというカナダの多国籍鉱業会社がチャーターしたものだった。議員のザイールへの最初の旅は紛争勃発直前の時期であった。彼女はその会社の経営代表者らと飛行機で同乗したが、会社に属していない他の人々も同乗しているのに気づいた。その中でも特に彼女を驚かせたのは、そこに武器密売業者も数人いたことだ。

それとほぼ同じ時にルワンダ新政権の指導者ポール・カガメは米国防省の高官と米政府中央アフリカ問題担当官らと会見した。これらの会見から2ヶ月もたっていない1996年10月にルワンダ、ウガンダそしてブルンディの軍隊がアメリカの支援と多大な軍事及び後方支援を受けてバニアムレンゲのグループと共にコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)の名の下にザイールの国土を侵略した。この軍隊は国際社会には「解放戦争」遂行しているものとして報じられた。

国連その他の国際機関が発行した書類によると25万人から37万5千人のほぼ全員がフツ系であるルワンダ難民が重火器と軽火器によって組織的に虐殺された。数十万人が逃避を余儀なくされ、ザイールのジャングルに追い込まれた。生き残ったものは主にザイール国内の様々な経路を約2千キロも渡り歩いた。

多くの報告の中でも社会学者ベアトリス・ウムテシが出版したものはバランスの取れたアプローチと勇気ある証言で際立っている。ルワンダ難民であった彼女はこれらの虐殺で生き残り、子ども、女、男、年老いたものすべての人々の苦しみを鮮明に描写した。これらの人々は戦火により、病気や餓えにより、そして組織的な性的攻撃により、またはこれらのうちの幾つかが重なることによって破壊され死んでいった。このような事態が進行する中で国連難民高等弁務官(UNHCR)は適切な援助を怠ったばかりでなく組織の権限を越えて難民をルワンダに強制送還した。送還されたものの多くがが裁判も認識できる起訴罪名もないまま虐殺の罪で集団で起訴され、弁護人もないまま刑務所に入れられていることや、場合によっては「消えうせて」いると知っていながらそれを行ったのである。

ベアトリス・ウムテシの報告最後にある「10ドルで取引される私の命」という章でザイールのブカヴ(ザイールの東側国境沿い)からムバンダカ(西側国境沿い)までジャングルを突っ切って兵士の攻撃から逃れながら悲劇的な逃亡を行った様子を描写している。疲労しひどく病気であった状態で国連難民高等弁務官(UNHCR)に強制送還されそうになった。この国連組織は地元のコンゴ人がルワンダの難民が居る場所を教えると一人につき10ドルを払っていた。